真夏シーバス

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思うに、日々乱雑にinputされる情報やら経験やらはそれをoutputする過程においてこそ洗練されるものである。

「あ、蚊に刺された」
「あ、あの女のぱんつ見えた」
「あ、ゴミ捨て日だったの忘れてた」
「あ、このスイカ美味しい」
「あ、シーバス釣れた」

こういったモノはoutputされない限りにおいては路傍の石である。
だから人は釣行記を書く

ただし、仮にoutputしたとしても

「ねぇ聞いて、今日シーバス釣れたんだけど」
「今日美味しいスイカを食べたんだけど」

↑この程度でアウフヘーベンされるわけがなく、限りなく無加工のまま排出されるソレらには大した価値はない。
ソレらは情報の排出ではなく排泄であって、どちらかというと人サマに見せるべきものではないのである。

価値あるoutputの第一歩は「誇示」であろう。





たとえばスイカの場合、どれだけ甘くジューシーだったかのか、どれだけ貴重で有名な産地のスイカであったか、そのスイカを数あるスイカの中からどうやって選び出したか、その経緯詳細を語ってささやかに誇るといい。
outputの第一歩である。
実は誇ること自体にはあまり意味がないだけれども、誇るために付随させねばならぬ副次的情報に聞き手の興味を膨らませる何かがあるかもしれないし、そのスイカを食べていない聞き手のために(自分が経験した)生の情報の加工を行うことによって話が洗練される可能性が秘められているのである。
もちろん話というものはこの「加工」の工程で恐ろしくつまらないモノとなることもある・・・バカがする話が面白くないのはそのせいだ

慣れると過去のスイカ話(自分の失敗談であることが望ましい)を織り交ぜ、聞き手のスイカ話を引き出し、今日のスイカに繋げる器用さが生まれてくる・・・何なら次のスイカに繋げることも容易である「お嬢さん、僕と一緒に美味しいスイカを買いに行きませんか?」ナンチッテ・・・この域に達しているならば価値のあるoutputができているといえる。


例えばこの釣行・・・端的にまとめてしまうと


エイが掛かったけどバレた(良かった)
またエイと思ったら実はシーバスで喜んだのもつかの間、岸まで誘導中にフックアウトした
巨エイが掛かったけどフックが全伸びでバレた(すっげー良かった)



空虚な3行で終わるワケですけど、暑い夏の夜に敢行されたぼらおさんの努力がこの記事を読んでいるであろう凡人どもにそのように「消費」されていいワケないじゃないですか。

満月の光、海の香り、ときおり遠くから聞こえるチープな花火の音、流れる潮、水面に煌めく人工的な光・・・全てに美しい意味があったのにたったの3行で終わっていいはずがないじゃないですか。

outputの達人であり全国9663万人のシーバスアングラーの頂点に立つ私にはこの体験を昇華して下々のアングラーに伝えるという崇高な使命があるのです。






いや、ほんと、よく考えると全然意味がなかったんですけどね。

なーにが満月の光だよコノヤロー、そんなんS○Xしたての女が余韻に浸って垂れ流すポエムと同じじゃねーかコノヤロー。
「避暑落ち」で湾奥のシーバス密度が激減してるから一ヶ所で待つ戦略は機能しねーんだよコノヤロー。
流れが出たら「ホットゾーン」に付近一帯からシーバスが集まってくるような季節じゃねーんだよバカヤロー。
仮に集まってきたとしてもホットゾーンの中の極上スポットに1匹だけ、それ逃したらオワリとかシビアな磯ヒラDAYな感じなんだよコノヤロー。

そもそも暑杉謙信で集中できねーんだよバーカバーカ!

帰るっ!



















わかったことその①・・・【明暗ランガンが正解】
わかったことその②・・・【今の時期に明暗ランガンなんてしたくない】
わかったことその③・・・【キスとかアジとか美味しい魚が食べたい】
わかったことその④・・・【ちょっと沈むヤツがよかった】
わかったことその⑤・・・【具体的にいうとロケットベイト95】

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